大崎下島、御手洗地区のページになります。御手洗は北前船も往来した瀬戸内海の潮待ち、風待ちの港町として栄えました。歴史の中で生み出されていった、建造物も多く、平成6年(1994)に国の重要的建造物群保存地区の選定を受けましたそんな御手洗を紹介していきたいと思います。

御手洗につくと、まずは御手洗休憩所があります。そこでは、江戸時代の港町「御手洗いい町、御手洗マップ」をもらえるので、御手洗を観光する際はそれを見ながらのんびりと歩くのがおすすめです。

御手洗に入ると、直ぐのところで常盤町通りに入ります。重要伝統的建造物群保存地区の、メイン通りになります。そこを歩くと、江戸時代で、時間の流れが止まったような感覚を味わうことが出来ます。

屋敷の中に入れば、江戸時代から今も残る貴重な茶室が魅力的な呉市指定文化財「旧金子家住宅」慶応3(1867)年11月、倒幕派の長州藩と広島藩が上京後の役割行動を定めた軍事協定(御手洗条約)を結んだ屋敷です。幕末の御手洗には、吉田松陰、大久保利通、坂本龍馬など、多くの志士達が来島しました。

天満宮の起こりは宝暦5(1755)年に近くの満舟寺境内に天神社が創建されたことに始まります。

1871年に芸州藩の役人・船越寿左衛門の寄進により「菅公の井戸」の傍らに社殿が運営されました、現在の社殿は1917年に町民の寄進により建てられました。境内は「天神桜」」の愛称で親しまれた桜の名所となり、春になると満開の綺麗な桜の花を見ることができます。

この境内の裏手には菅原道真公が九州の太宰府へ流される途中、この井戸に立ち寄って手を洗ったとされる井戸が残っており、御手洗(みたらい)という地名はこれに由来するものと言われています。書道の神様の菅原道真公にちなんで、正月にこの井戸の若水を汲んで書き初めを行えば、書が上達するという伝承があり、地元の子供たちは社殿に書き始めを並べて奉納していました。

井戸の横には、本殿の真下に設けられた通路があり「可能門」と称されています。願いをこめて、この門をくぐると、願い事が一つ叶うといわれています。

相生通りに入ると、新光時計店、駄菓子屋玩具ミュージアム「御手洗昭和館」、村尾昌文堂御手洗店、乙女座があります。相生通りでは、江戸時代だけではなく、昭和レトロな味わいも楽しめます。

瀬戸内に浮かぶ伝統と技術、新光時計店。創業150年を超える時計店。メーカーでも修理不可能な時計が持ち込まれる「時計の駆け込み寺」として、全国に知られています。

お金では買えない価値を提供する、日本一の時計屋さんです。

江戸時代から明治、大正、昭和初期の時間が流れる御手洗で、昭和中期、日本の古き良き時代にタイムスリップできる「御手洗昭和館」。大人には懐かしく、子供には新鮮で親子でも楽しめます。

村尾昌文堂さんの店先に飾られている、おちょろ舟の模型。江戸時代、上陸できない船員のために、遊女たちを停泊中の船まで運んだ舟として知られています。

昭和12(1937)年、当時の御手洗町長が町民の文化向上に貢献するためにと、私財を投じて建てた劇場です。その建物は建築の粋を集めたモダン劇場として一際目立ちました。戦後は昭和30年代まで映画館として親しまれ、映画が斜陽になった後は、地元の特産品であるみかんの選果場として転用されました。平成14年3月より、現在の形に復元されています。壁には、実際に「乙女座」にかけられていた往年の映画のポスターが展示されており、当時を偲ぶことができます。

越智醫院(おちいいん)の看板が目を引く大正時代に建造された洋館です。現在は建築当時の良さを残しながら、リノベーションされ、ゲストハウスとして活用されているようです。

幕末の動乱期、文久3 (1863) 年8月18日に公武合体派によるクーデターが起き、京都を追われた討幕派の公卿、七卿が長州兵に守られて都落ち(七卿落ち)しました。翌年、長州藩が京に進軍するものの「蛤御門の変」で、敗れたため、上京を夢見た五卿は、香川県まで登っていましたが、京都の敗北を知り、引き返しました。その途中、7月23日に御手洗に立ち寄り、この庄屋に宿泊して旅の疲れを癒やしました。

寛文6(1666)年に町割りが始まった御手洗で、最も古い社とされる恵美須神社。伝承では、千沙伍磯に夜な夜な光るものがあり、漁師が引き上げると蛭子神像であったため、祀ったのが創建の由来とされています。御手洗に立ち寄る船乗りたちは、ここで航海の安全と順風を祈願しました。

恵美須神社の鳥居、道路を挟んで海側にあります。縁結びのご利益があるといわれています。

鳥居から眺めると隣の大長、岡村島、綺麗な海。ゆったりとした、時間の流れの中で見る、それらの景色は心を癒してくれます。

昔の船着き場、階段状になっているので、潮の満ち引きに関わらず、船を寄せられるように造られています。

天正13 (1585) 年、羽柴秀吉が四国征伐の際の前線基地として、加藤清正に造らせた石垣といわれています。満舟寺の石垣も、アニメや映画のロケ地でも使われた有名なスポットです。

大崎下島循環線からの御手洗は、飲食店、カフェ、たばこ屋さんが並んでいます。海や高灯籠、千砂子波止を見ながら、休憩するのも良いものです。

住吉神社の先にある「千砂子波止」は、江戸時代後期に広島藩が築いた防波堤で、文政12(1829)年に造られました。城壁の築城にも使用された「牛蒡積み(ごぼうづみ)」と呼ばれる高度な工法(当時の最高の技術)が用いられ、中国無双と称えられました。
「高燈籠」は、「千砂子波止」の突端で灯台の役目を果たしてきました。当時の繁栄ぶりを現代に伝えています。

御手洗は歴史のある街で、人々を楽しませ、癒しを与えてきました。長い歴史ゆえに良いもの、悲しいものも中にはありますが、現在では、それらすべてが歴史的価値のあるものだと思います。また、それらを保存してきた、大崎下島の人達の努力や知恵が、日本遺産として評価されるまでになりました。これからも御手洗は、人々を楽しませ、癒しを与えてくれると信じています。

御手洗ページの末尾になりますが、ここでは伝えきれなかったものも多く、ぜひ、観光で見に来て頂ければと思います。そして、星の数ほどあるウェブサイトの中で、私のサイトを閲覧してくださり、ありがとうございました。